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ディック3
一九三一年生まれというと、
一九四八年生まれは
戦争を挟んで
一七歳年下になるのだけれど、
あなたは
一九五五年に死んでしまったから、
二〇一一年の今年は
国境を越えて
三八歳年長になってしまった。
ボストンのどこか
瀟洒なアパートで、
音の乱れたアップライト・ピアノを
あなたが弾いている。
そんな午後を
あなた自身は
生前から忘れているかもしれない。
ぶらぶらと
鍵盤をさまよい、
時に駆け出し
新しいアイデアを試してみる。
八八鍵は
思索と瞑想の沙漠、
無限のフレーズが
秘宝の如くに埋もれている。
熱心なあなたの練習は
スピーカーからではなく
向こうの部屋から聴えてくる、
そんなくぐもった音が、
何やら、あなたを
(「未来」を)
下宿させているような気がして、
今朝も
――ディックはもう起きているのかい
危うく
そう妻に切り出すところだった。
遠い過去の音なのに、
二十一世紀の
老人を慰めるなんて、
凄いことじゃないか。
うれしいことじゃないか。
ディック、
あなたのために
ピアノはもう用意出来ないけれど、
なにをすればよいだろう。
あなたの考えていたこと、
あなたが試していたこと、
あなたの沙漠と
掘り出した秘宝。
あなたはあなたで
天上でこんどこそ
やることがいっぱいあるだろうしね。
泉井小太郎 春とピアノ―[TOP][表紙][目次][前頁][次頁]