V V こんな舶来の草地でなら V V 黒砂糖のやうな甘つたるい声で V V 唄つてもいい。 v V |
ihatovon note -2
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大学に入って間もない頃、演劇部の練習場に毎日遊びに来る女の子がいました。
なぜか仲良くなって、前庭で草を摘んだり、お喋りしたり・・・。
彼女の夢は、大きくなって演劇部にいた先輩のお嫁さんになること。
一生懸命四つ葉のクローバーを探していましたが見つかりません。
「ほら」と簡単に見つけてあげると、とてもびっくりしたようでした。
それが、わたしが初めて見つけた四つ葉のクローバー。
「民話劇ぐるーぷ」というところに居たのですが、
今から考えると、賢治さんの採り上げようもあったな、と悔しい気もします。
(5.6)
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もう1人、四つ葉のクローバーをあげたひとがいます。
ベルリンで日本語を勉強する女子学生ハイケさん。
ジャズを聴いたり、竹取物語の話をしたり、蛍を見たりして、
翌日、彼女を見送っていく河原にクローバーの叢がありました。
五つ葉、六つ葉を見つけた話をしながら、
紋で探すと案外見つけやすいようですよ、としゃがみこむと、
たちまち1つ発見、差し出すと予想以上のよろこびようでした。
あらためて、西洋のシンボルなんだなと実感。
野日月俳華(ハイケ・ノビツキ)という日本名とともにプレゼント。
(5.18)
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ハイケの友人のナナエさんはベルリン在住の美術家。
「注文の多い料理店」を独訳し、
娘のソフィア(ユキ)ちゃんの挿画をつけて、
私家版の小冊子を作っていらっしゃいます。
賢治作品は案外個人レベルでも拡がっているのかも知れません。
(5.19)
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「銀漢ヲ行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ
遥カ虚空ニ消エニケリ」
保阪嘉内が14歳の時に見たハレー彗星の印象です。
1910年5月20日夕8時とあるスケッチには、
駒ヶ岳から地蔵・観音・薬師三山にのびる見事な尾が描かれています。
(毎日新聞1998.3.28夕刊より)
(5.20)
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小岩井農場までは行けないものの、
5月21日はどこかを散歩してみたくなります。
600行に及ぶ長詩「小岩井農場」は、
静かな短編映画のような面白さもあります。
誰かアニメか絵巻にするひとはいないでしょうか?
(5.21)
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踊りながら身体に韻律の訓練を与えたという賢治さん。
それも詩作のためだったという話が伝えられています。
呼吸、脈拍、歩行、見聞、感情、思考、想像・・・
それぞれのリズムが渾然一体となって詩作に流れます。
原リズムにとても素直なのが<心象スケッチ>の魅力です。
(5.28)
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東山の旧茶屋街にある茶房「ゴーシュ」というお店で、
「詩と朗読〜賢治によせて〜」という催しがありました。
岩手一戸出身の細川律子さんの語り「セロ弾きのゴーシュ」。
わたしも賢治さんに関連した詩を幾篇か詠みました。
スズキコージさんが丸板に描いた絵の中で、
「ゴーシュくん」が静かに伴奏してくれていたような気がします。
(5.30)
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この五月に美しく懸命な毛虫の舞踏に会いました。
すっかり魅了されてしまったのですが、
そのとき、オホーツクの流氷の天使−クリオネと、
イーハトーヴの蠕虫舞手−ボウフラのダンスが浮かんできました。
いのちたちの舞踏・・・なべてのもののコズミック・ダンス。
また1つ、素晴しい賢治体験・イーハトーヴ体験でした。
(5.31)
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ときどき、ゴーシュくんの「印度の虎狩」を聴きたくなります。
三毛猫のようにパチパチ火花を出して風車のように回るのか、
金星楽団のメンバーのようにひっそりとしてしまうのかは分かりませんが。
賢治さんも、セロの低弦で虎の唸り声を出してみたりしたのでしょうか。
「印度の虎狩」を怒った象のやうに弾きたくなる時があったのでしょうか。
(6.3)
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くわくこうの
まねしてひとり行きたれば
ひとは恐れてみちを避けたり
大正5年、盛岡高等農林学校2年生、賢治19歳の夏の日のことです。
カッコウの鳴く姿を見れば、案外真似してみたくなるものです。
体を前に傾けて、両腕をパッパッと翼のように開閉し、
カッコウ、カッコウ、カッコウ・・・
この歌も単に鳴き真似だけではないような気配があります。
(6.6)
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コンピュータとの出会いは中古の classicII。
友人がそそのかすように置いていったものでした。
マウスの使い方さえ知らなかったのですが、
Hypercardがあるのを見つけ、雑誌の記事を手がかりに挑戦。
あとは子供が初めてのオモチャと遊ぶのと一緒、
そうして、イーハトーヴ百科事典のカードを作り、
イーハトーヴ星事典、花事典、鳥事典とスタックを増やし、
それぞれのアイコンなども新作しました。
(6.10)
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地上を走る青い夜行列車「銀河」に乗ったのは、
6月14日でした。もう30年余り前のことになります。
そのとき、私はどこに向かおうとしていたのか、
いまだにほんとうの行き先には着いていない気がします。
それが私の第1次銀河鉄道の夜の旅でした。
6月の銀河は宵のうち地平に横たわります。
(6.14)
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ジョバンニは銀河鉄道の旅から帰ってきたあと、
さらにどんなはるかな旅を続けたのでしょう。
大きな暗も恐がらずに「みんなのほんたうのさいはひ」を探して、
どこまでも進んでゆけたでしょうか?
お父さんお母さんを哀しませることはなかったのでしょうか?
(6.16)
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伊能忠敬の歩幅は69cmあったと言います。
<森やのはらのこひびと>だったひとは、
いったいどれくらいの歩幅で歩いたのでしょうね。
(6.20)
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そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
「ゆれるゆれるやなぎ」こそありませんでしたが、
わたしの故郷にも気圏日本の青野原はありました。
青野原とも青野ヶ原ともいう、長々と横たわる丘陵です。
「気圏日本のひるまの底」に幼い孤独を慰めながら、
「ひかりの底でいちにち日がな」ゆれていたのは、
まだりんと立つことも出来なかったやなぎのような誰かでした。
(6.25)
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ギリシア神話に彩られた星空があるように、
イーハトーヴの末裔たちには、
イーハトーヴの物語で綴られた夜空があってもいいですね。
(6.30)
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古生銀河の南のはじは
こんどは白い湯気を噴く
初めて撮った星空写真に、天の川の瀑布が見事に写り込んでいました。
ふつうのカメラでもOKと知って、半信半疑でレンズを向けたのですが、
これは大変だ、これはほんとうに星が恐ろしいぐらいにある…と、
感動とともに、なにかかえって慌てたような気持になったものです。
自分で受け取った「あらゆる年代の/光の目録(カタログ)」。
そこには茫と霞む星団や、ピンク色に浮かぶ星雲、
射手のこっちの一つの邪気も、
蠍座あたりの西蔵魔神の布呂に似た黒い思想も、
みんなすっかり素直に姿を現してくれていたのです。
(7.7)
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Q&A方式をベースにした「賢治事典」「イーハトーヴ百科事典」、
誰でも書き込めて、みんなで編集・校正・増補していくWeb事典、
そんなものがあったらいいなあ、とぼんやり考えています。
賢治作品には謎の言葉が多すぎて、個人で調べるのは大変です。
(7.10)
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短夜や芦間流るゝ蟹の泡(蕪村)
古京の俳人も、イーハトーヴの詩人もじつにいい眼をしています。
自然の事物へのこまやかな愛情、ゆたかなイマジネーション。
蟹の子供たちも、こんなやさしい眼差しなら、
どぼんと水中に飛び込んで来ても恐くありません。
小狐の何にむせけむ小萩はら(同)
これもそのままイーハトーヴの童話風景が展開しそうです。
(7.14)
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宇宙の銀河鉄道として紹介された、7両編成(発見当時)の彗星がありました。
正式な名は、シューメーカー=レヴィ第9彗星(SL9彗星)。
やがてこの奇妙な彗星は木星に衝突するというので大騒ぎになりました。
1994年7月17日から22日にかけて、21両が次々に木星に消えていきました。
この日は、ビリー・ホリディとジョン・コルトレーンの命日であり、
露の俳人川端茅舎がその凄絶・清涼な生涯を終えた日でもあり、
賢治が詩「薤露青」で妹トシを想いながら星空を見つめていた日でもあります。
みおつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ
……あゝ いとしくおもふものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといふいゝことだらう
朴散華即ちしれぬ行方かな(茅舎)
(7.17)
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奥能登の山中で、ぼんやりどころか大爆発する天の川を見て来ました。
仰ぐたびに、視線を移すたびに、なんべん息を呑んだかしれません。
あの岸を銀河鉄道が走ると思えば、川は海のように大きく、
列車はほんとうに小さなものでしかありません。
壮大な距離を、夢の小1時間、幻想の数時間で銀河鉄道は走ります。
星図を辿っても掴めない感覚が、実際の星空を見れば納得できます。
遼遠な時空を一望出来る天空とは、じつに不思議なところです。
(7.21)
48
「ジャズ」夏のはなしです
そして<岩手軽便鉄道>は走り出します。
がたごとがたごとリズムとスピードに乗って、
片道そのまま一篇の童話、一曲の音楽です。
1925年。
ジャズがまだ2拍子音楽だった頃です。
(7.24)
49
1923(大正12)年の汽車は、
「銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」
賢治さんは樺太へ向かう列車の中で、
なにやら幻想第四次に乗り込んだようです。
(8.5)
50
ジョバンニくんの孤独と、賢治さんの寂寥。
ザネリはその後、どのような人生を送り、
樺太へ同行した生徒はいかに生きたのでしょうか?
この生徒のことは「オホーツク挽歌」9篇の中に一行も出てきません。
(8.6)
青色文字の部分は、賢治作品(ちくま文庫・宮沢賢治全集)からの引用です。
てっぺんの文章は、詩「習作」より。