ふうら草紙

手毬風羅

ふうらと手毬の出会いは、一人のふうらが、越後の出雲崎で、手毬を拾ったことから始まります。

手毬風羅1   この毬ついた嬢ちゃんは
  村の青田をどこへやら
  雨に濡れてる一ツ松
  栄蔵さんはどこへやら

栄蔵さんは、良寛さんのことです。
それ以来、手毬とその時の即興の手毬歌は、ふうらからふうらへと伝播していきました。上の二人は2番の歌詞を歌っています。

  この毬ついた嬢ちゃんは
  村の小径をどこへやら
  月に濡れてる一ツ松
  栄蔵さんはどこへやら

手毬を愛するふうらが増えるにつれ、手毬歌も少しずつ増えてきました。

手毬風羅2

  旅のこころはあじさいの
  ひと色ふた色み色から
  あの山越えて川越えて
  甘酸辛苦の七色に


そのほか幾つかの歌を紹介しておきます。

手毬風羅3

  春はよしののさくら花
  ほんにこころが散るぞぃな
  秋はたかおのもみじ山
  ほんにこころが染むぞぃな

   

  空でなかよく光るのは
  寒山拾得双子星
   
  旅のこころは淋しさの
  りんごの芯と思うべし
  ふるさととおく柿色の
  人恋しさもありぬべし

ふうらの手毬歌はまだまだありますが、追々、紹介していきます。
ふうらが、なぜ、これほど手毬を好むのかはよく分かりませんが、手毬が似合っていることだけはたしかなように思えます。



ある本で、良寛生地の一本松と、良寛遺愛の手毬の写真を見たことから、ふうらの毬つきが始まりました。一本松の根元に、だれかが忘れていった毬が、ふっと見えたのでした。その毬をついていたであろう村の少女が、良寛と遊んだことがあるのか、もっと後の世代で噂にしか知らないのか、あるいは、どこかへ消えていった庄屋の栄蔵さんの話のみで、良寛帰郷の際は妙齢のご婦人に成長していたか、そんなことを楽しみながらの始まりでした。気が向けば手毬をつくように、手毬ふうらを描いてきましたが、そうしているうちに手毬哲学のようなものを学びました。もちろん、良寛と、ふうらが先生です。次はそのあたりのことに触れる予定です。

草紙目次手毬風羅2

風羅天地  home 風羅春秋