雪と羅漢と角 1月4日 |
午後から小吹雪。 カラスウリの山行きは取り止めたが、 相棒が角のあるひとを見たいというので羅漢寺へ。 着いた頃に激しい降り様で、境内には先着二組の夫婦。 播磨の石仏だから、雪は珍しく、 嬉しがったり、楽しがったりしているのかどうか。 ずいぶん寒そうに見えるひともいる。 まあ、石の冷え方は並じゃないだろうから。 角のある人がいる。 羅漢に角があるわけなかろう。 キリシタンも 角は生やさないだろう。 どういう人なら 太くて愛らしい あんな角をもてるのだろう。 角でないのか 無理矢理頭に乗っけられたのか。 HTML版完成間近の「春と石仏」の一章。 左の羅漢の右肩で、去年の春、うす青い二頭の蝶が交尾していた。 蝶が二頭 石仏の肩で交尾する 日は照り また翳り 梢ではカワラヒワが鳴く 蝶は 何蝶か 小さいものの密やかな刻 石仏は 何仏か 頭に三角のつのを戴いて もうひとり角のあるひとがいる。 このひとの角を掌で包み、握らせて貰った。 何か暖かいエネルギーが流れ込んで来るような気がした。 |
高室石採掘跡 1月21日 |
北条石仏の素材となった高室の石切場。 普通の里山の中に何カ所かあるらしい。 もちろん今は使われていない。 山径はさすがに肺にこたえたが、 一度は立ってみたい場所だった。 石を彫ってみよう、という講座の第一回で、 来週から実習に入る。 その足で羅漢寺に向かい、並んだ石仏たちを見ると、 また新たな感慨がある。 リュウノヒゲのつやつやした青、 エナガのジュリジュリ渡る声、 コゲラの波状に飛びゆくさま。 |
土曜石工 1月28日 |
羅漢寺前にテントを張って、9時から12時まで石彫り。 気温3度のスタートだったが、そのうち寒さを忘れた。 小型でちょっと太めの石を選んでしまったので、 最初はただただ石を削っていくだけの作業。 ノミと金槌でコツコツ、嫌になるかと思ったのに案外性に合う。 第一日目は上の写真まで。 相棒が眺めて「かわいい、これでいいんじゃない」。 まさかそうはいかないが、ほとんど石のままだから悪くない。 ここからだんだんひどくなって泥沼に入っていくのが目に見える様だ。 裏と左側面は、もとの石の状態をそのまま残すつもりでいる。 早くも講師陣の言うことを聞かないやっかいな生徒振りである。 終わって、ひとり境内の石仏に逢いに行った。 なんだかいつもよりぐっと親近感があって不思議。 同じ高室石に触れて、彼らの体温を感じたからか。 改めて眺めると、ほんとに簡素な作り、線刻も浅くて僅か。 やっぱり出来るだけ手を入れないでいきたい。 午後からは腕が痺れて、マウスもいつものように動かせない。 |
土曜石工──野羅 2月11日 |
石彫り三回目。 やっと顔にとりかかる。 同じ石でも、端渓と高室は全く違う。 こんな二つを比べる者は他にいないだろうが、 昨日は中国の有名石を触り、 今日は日本の無名石を彫った。 ともに凝灰岩、火から出て水を潜った。 石は巖であってもよかったろうに、 一方は硯になり、 他方は羅漢となる一歩手前で こんなぼくと縁を持っている。 不思議なことだな。 不思議を大事にしていくことだな。 あとは、目と口と手を入れるだけ。 簡素な線刻がいかに難しいかは今日思い知った。 本日の仕舞いの写真。 野良の子猫のようとの評もある。 野羅に見えたならまあいいとする。 |
羅漢一揆 2月17日 |
北条大飢饉の前、明治4年に近在で百姓一揆が起こり、 二百人ほどが五百羅漢に集結、 石仏の首を次々に刎ねていくなどの狼藉を働いたという。 伝聞以外に記録は残っていないらしいが、 羅漢の首や胴体の傷がいまも生々しく物語っている。 五百羅漢信仰の流行った江戸期には、 田能村直入が「羅漢修竹図」で詠っている通り、 あのあたり閑寂な風情のある一帯であったろう。 それが幕末からの廃仏毀釈の流れで打ち棄てられていく。 柳田國男がすぐ隣の小学校に通っていた頃には、 境内は藪に埋もれ、まむしの棲みかとなっていたのか。 惜しいことである。 柳田民俗学の始まりであってもおかしくない謎の石仏が、 一言も触れられないままに終わってしまった。 |
土曜石工──雨の羅漢 2月25日 |
石彫り。今日から二体目。 最初のはオリジナルを真似て後で眸を描き入れる予定。 前回はノミで線を手彫りするだけが、 今回は粗々とハンマーを振るいっぱなし。 細粒の凝灰岩は硬くも脆くもあり、 隣の人は、鼻を、頬を、首を、と三度叩き落としている。 ちからのへなちょこなぼくも按配が難しい。 ※ 雨の日は石がしっとりするから、 愛用のデジカメを持参、休憩中に境内に入った。 雨に混ざって、メジロの声も降る。 先に入っていた石彫り仲間の青年が、 一体の石仏を指して、 ――この人を見たかったんですよ。 「石の心」という本で惹かれたのだと言う。 なるほどそういう訪れ方もあるのだな。 別の仲間はある本の表紙を飾った石仏を探していた。 雨の日は色も鮮やかになる。 地衣類の生長衰退で、かれらの化粧衣装も漸次変化する。 この日目に付いたらかんの髪飾り。 前に回って顔を見なかったから、美人のほどは分からない。 さてはて、このあたりに女人が佇っていたかどうか。 ※ 夕寝中に腹がぐうぐう鳴った。何年振りかこの音響は。 そうとうハンマーを振るったのだと再確認した。 しかし相棒から、 ――傘を忘れて来たろう。 <弁当忘れても傘忘れるな> 北国暮らしは遠くなりにけり |
北条石仏の豆本 2月29日 |
ネット検索で見つけた豆本が届いた。 「はんが北条石仏」明石豆本らんぷの会 1971 版画家の上野長雄の作品は以前に姫路美術館で観て、 その時にも北条石仏の版画は何点か展示されていた。 豆本もガラスケースの中に陳列されていたが、 それは手刷版画添付の特製版だったのだろう。 北条石仏の豆本はもう一冊あって、 「北条石仏 百人一首一人百首」神戸豆本灯の会 1976 羅漢寺先代住職で歌人岸原広明の百首と、 短歌仲間百人のそれぞれ一首ずつが収められている。 こちらの方は加西図書館で閲覧した。 |
鶯やけふ生まれたる石佛 3月17日 |
雨の中、石彫り最終日。 出かける前にふうら占いをしてみた。 ションボリウム、と出た。 あらら、もう一回。 ホロリウム………。 二体目の胸を広げているときに、ボコリと剥離。 この時、ちらりとションボリウム風羅が頭を掠めた。 あとはホロリとならないように慎重に。 出来たと言えば出来て、未完成と言えば未完成。 終わって一人また境内へ。 雨滴をたらした梅の蕾がびっしり。 滴も蕾も美しい。 一羽のウグイスが熱っぽく囀りへ向けての練習。 イカルかキビタキかという美声に、 ヒヨドリかセグロセキレイかという早口のぐぜり。 法華経が特許許可局に聞こえて、 ひょっとすると物真似名人のモズだったのか。 雨の中の石仏を撮りたかったが、雨は止んだ。 大きな枝が一本落ちている。 こういうことでも破損が起きるのだろうな。 バッグから二体を取り出して記念撮影。 苔や地衣類がつくのはまだまだ先のこと。 高室石としての年齢は同じでも、 羅漢となってはまっしろな新人。 帰って計れば4.2kgと、3.6kg。重かった。 |
石の羅(うすもの)たち 4月18日 |
この冬の間に彫った石仏の展示会が始まっている。 高室石の採掘現場探訪から始まって、毎土曜午前八回の製作。 朝の苦手な小生が、寒い屋外仕事をよくぞまあ続けたと思う。 北条石仏をルーツとするふうら像を長く粘土で作ってきたが、 原点はやはり石、それも高室石を体験出来たのだから嬉しかった。 高室石は、柔らかく、暖かい。 脆くて剥離しやすいところなど、 まさに石の羅(うすもの)。 北条石仏は、風に雨に破れ易き、風羅坊でもある。 ところで、その傷んだ石仏を疎開させて、 代わりにレプリカを並べようという案があるらしい。 高室石に触れることが出来るとばかり申し込んだ講座が、 石仏製作の後継者を現代に養成しょうという プロジェクトの第一歩である、と後で知って驚いた。 もっとも高室石そのものが採掘困難になっており、 高室石でなくては専門家以外には技術的に無理というので、 手探りの計画が挫折頓挫する可能性もある。 文化遺産が朽ちていくのは実際見るに忍びないが、 北条石仏の特異な魅力は複製不可能だと思っている。 一切が謎とは言え、何かしら不思議な歴史の因縁が、 二枚、三枚と複雑に織り合わさっていそうで、 こんな風貌の、こんな造形の、こんな曖昧の石像は他に無い。 関係者の方々には申し訳ないけれど、 羅漢場の石仏自体を入れ替えるという、 その案だけは立ち消えてほしいと願っている。 北条石仏は地元の文化財という枠を超えて、 この国の歴史遺産でもあり、 すでにそれだけのファンを全国に獲得している。 その人たちが観たいのは、例え剥離がひどくても、 長年の風雨に耐えて来た謎の石群風景であるはずだ。 |