附録:プロフィール + ディスコグラフィー
ユタ・ヒップ(jutta hipp)
一九二五年二月四日、ドイツ・ライプツィヒ生まれ。
美術を志望する学生だったが、ジャズ・ピアニストとしてミュンヘンで活動を始める。ハンス・コラーのコンボに入り、アッチラ・ゾラー、A・マンゲルスドルフらと演奏した後、自己のクインテットを率いる。一九五三年にはドイツのジャズ誌でピアニスト部門の第一位。
一九五五年、アメリカへ移住。フランクフルト時代の演奏をブルーノートが買い取って発売。また、ヒッコリー・ハウス(レストラン)の専属ピアニストになり、一九五六年四月五日のライヴ演奏が二枚に分けられてブルーノートから発表され、彼女の代表作となる。
このあと、ズート・シムスとの共演作を一枚出して、忽然とジャズ・シーンから姿を消す。
以後は長く消息不明で、裁縫の賃仕事などをしながら、水彩画を描いて暮らしていたらしい。晩年は画家として個展も開くが、故国へも帰らず、独身を通し、ニューヨークのアパートでひっそりと亡くなった。二〇〇三年四月六日没。
ジャズ黄金時代の清楚な一輪の花。この花を見失ったのは本当に惜しいが、繊細でストイックな彼女では、荒々しいジャズの現場に立てきれなかったと思われる。押しつけられた曲を弾くのを断ったり、金銭に執着しないなど、芸術的な姿勢も当時では浮いただろうし、いじめにあったとの伝聞もある。絵画の他にも、人形製作や写真、詩にも才能を発揮しながら、人知れず貫いた孤高の生涯。
※ ディスコグラフィー
○「Jutta (New Faces - New Sounds From Germany) 」Blue Note
渡米前のフランクフルトでの演奏をブルーノートが買い取って発売したデビュー盤。ドイツ・ジャズ・シーンのホープだったユタのパップ色の薫る演奏が聴ける。 Europe's First Lady Of Jazz。 |
○「jutta hipp at the
hickory house vol.1」Blue Note
ヒッコリー・ハウスでのライヴ。自身で曲目紹介しながら演奏する。その声で、繊細で、誠実な人柄がうかがえる。ピアノの音もフレーズもそう。「ディア・オールド・ストックホルム」が素朴な演奏でこころに沁みる。 |
○「jutta hipp at the
hickory house
vol.2」Blue Note
同日のライヴ第二集。ここでは「アフター・アワーズ」に挑戦。ユタ・ヒップの並々ならぬ秘めた闘志がブルーノーツに籠められている。力強くあろうとするバップ意識と、本来の女性らしさが絶妙にブレンドされて、切ないくらい。 |
○「JUTTA HIPP with zoot
sims」Blue Note
唯一のスタジオ録音。どこかで顔合わせのあったズートをゲストに。それなら初めからユタのリズム・セクションでと思うのは、遠慮がちなピアノのため。ズートはくつろいでよく歌う。「コートにすみれを」がしっとり。 |
ブルーノート録音の三枚が、渡米後のユタ・ヒップの全てで比較的入手し易い。デビュー盤もブルーノート創立70周年記念で廉価盤が出た。ドイツ時代の演奏は、未発表曲を付け加えたコンプリート盤がフランスから発売されているが未聴。
ドド・マーマローサ(Dodo Marmarosa)
一九二五年一二月一二日、ピッツバーグ生まれ。
九歳の頃からクラシック・ピアノを習っていたが、やがてジャズの勉強を、級友のエロール・ガーナーと続ける。
一四歳で楽団入り、プロとして仕事を始める。以後さまざまなオーケストラを経験、一九四〇年代半ばには、レスター・ヤング、チャーリー・パーカーのレコーディングに参加。
一九四六年にダイアル・レコードに初吹き込み。アート・テイタムが有望な新人にレッド・ガーランドと共に名前をあげたのはこの頃か。
一九五〇年以降、離婚、徴兵、電気ショック療法などで、精神的に病んでいき、ジャズ・シーンから遠離る。
一九六一年、シカゴで「Dodo's Back!」を録音。翌六二年にもジーン・アモンズとのセッションを持つが、以後消息不明に。三十余年経って、療養所にいることが判明。未発表の私家録音に、本人の自己紹介、インタビューを付けたものが発表された。療養所の住人や訪問客の前で、時折ピアノを披露していたらしい。(二〇〇二年九月一七日没)
ジャズ界には、バド・パウエルやフィニアス・ニューボーン・ジュニアなど精神的問題を抱える天才が何人か、その中で、ドド・マーマローサはついに現場に復帰して来なかった。前二者より長生きしたのが、憐れなのか、幸いなのか。パウエルに匹敵するテクニックとアイデアで、切なく円やかなピアノを弾く。穏やかな人だったと思われる。
※ ディスコグラフィー
○「Dial Masters」Spotlite
一九四六年―四七年にダイアルに録音したもの。チャーリー・パーカーとのセッション時から、ロス・ラッセルが企画。絶頂期の演奏で、閃きに充ちた濃縮のフレーズにくらくらする。「バップマティズム」は十年後のパウエルの「クレオパトラの夢」を予言するかの名演。 |
○「Pittsburgh, 1958」Uptown
死亡したとも思われていた人物が、冒頭いきなり「わたし、マイク・マーマローサです」といって驚かせるが、演奏は以前のもの。私家録音や放送録音を集めてある。「ロビンの巣」でいつもはっとする。うっとりする。本当に温かい音。 |
○「Dodo's Back!」argo
シーンから消えていたドドのカムバック盤。長く廃盤状態で、幻の名盤としても名高く、愛聴する人も多い。「メロウ・ムード」をはじめ、陰翳のある曲が並び、端麗なフレーズをまろやかに、温かく、切なく弾かれるのだから堪らない。 |
○「Jug & Dodo」Prestige
冒頭の「ジョージア」ではアモンズもなかなかしっとりしたソロをとるが、やはり聴きものはドドのピアノ。ソロ・パートに移った途端に耳がすっと引き寄せられる。トリオでの六曲は珠玉の演奏。この人の優しさと、哀しさと。 |
「Dodo's
Back!」しか知られていなかった頃に比べると、たくさんの未発表盤が出て、音源のダブりに注意が必要。特にダイアル音源は、様々なレーベルから他の音源との抱き合わせ再発がある。サイドメンとしてはチャーリー・パーカー、レスター・ヤング、ワーデル・グレイらとのセッションがある。
リチャード・ツワージク(Richard Twardzik)
一九三一年四月三〇日、ボストンの北、ダンバーズ生まれ。
早くからピアノを弾き、マーガレット・チャロフらに七年間クラシックを習う。ニュー・イングランド音楽学校で学び、十四歳でプロ・デビュー。チャーリー・マリアーノ、サージ・チャロフらと演奏、一九五二年には、ボストンにやって来たチャーリー・パーカーとも共演。
ピアノ・トリオの初吹き込みは一九五四年十月、パシフィック・レーベルへ七曲。
翌一九五五年、ラス・フリーマンの後任として、チェット・ベイカーのグループに参加、秋からヨーロッパ楽旅に出る。オランダ、ドイツを回り、パリではチェット・ベイカー・カルテットでスタジオ録音。
ある日、リハーサルに出てこないディックを迎えに行ったメンバーが、ホテルの一室で腕に注射針を立てたまま冷たくなっているのを発見。ドラッグの過剰摂取によるもの。一九五五年一〇月二一日、二四歳だった。
ソニー・クラークやウィントン・ケリーと同年のツワージクが、直後のジャズ黄金期を生きのびていたら、どれだけの名演名盤が生まれたことだろう。幅広い音楽素養を活かし、どこへ飛翔するか分からないイマジネーション、かと思うと、バラードをしっとり弾いて、この世のものとは思えぬ妙音を出す。永遠のひとかけら。
※ ディスコグラフィー
○「Trio -Russ Freeman /
Richard
Twardzik」Pacfic
正式に残した唯一のアルバム。と言っても死後のこと。曲数が足りず、先輩のラス・フリーマンが自分の演奏と併せて追悼盤とした。鬼才の片鱗がうかがえるオリジナル曲も面白いが、「ベス・ユー・イズ・マイ・ウーマン」は息が詰まるほど美しい。 |
○「1954
Improvisations」New Artist
友人の家でのリハーサル。ソロ・ピアノ六曲を含む十二曲が収められている。先の七曲と併せてこれが彼の名義によるピアノ演奏の全て。霧の向こうから聴こえてくるようなピアノは、とても自然だ。ひとりの若いアーティストの心情が川の流れのようにせせらいでいる。 |
○「Charlie Parker / Boston 1952」Uptown
ハイハット・クラブでのライヴ。パーカーにインスパイアされた21歳のツワージク。気後れもせずに斬新なソロをとる。9分に及ぶ「ドント・ブレイム・ミー」では、ありったけの美意識を伝説の"バード"に捧げるかの様なプレイ。 |
○「Indian Summer: The Complete 1955 Concerts in Holland」55 Records
チェット・ベイカー・カルテットのアルバム。ツワージクはサイドメンの時でも、ソロ・パートになると数音で自分の空間にしてしまう。「アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー」のうるわしさ。 |
○「Chet Baker Quartet Featuring Dick Twardzik」Barclay
楽旅中のパリでのスタジオ録音。ボブ・ジーフの馴染みのない曲ばかりを採り上げていて、不思議な雰囲気のアルバム。一曲のみツワージク作曲で、「グリーンランドの少女」はリズミックな佳曲。 |
ツワージク名義では「Complete Recordings」Lonehillというのが、スタジオ録音、リハーサル録音の両方を完全収録。
チェット・ベイカーとのライヴがもう一枚。ケルンでのコンサート。オランダ・ライヴに比べると音が格段に落ちるが、インストのみの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は絶品。総じて、ツワージクのアルバムは入手困難。
トニー・フラッセラ(Tony Fruscella)
一九二七年二月四日、オレンジバーグ生まれ。
一四歳までセント・ドミニク孤児院で育つ。ジャズの魅力に取り憑かれて、孤児院を出て勉強。一八歳で兵役に付き軍楽隊で活動。除隊後は、レスター・ヤング、スタン・ゲッツらのコンボで吹き、一九五四年七月、第一回ニューポート・ジャズ・フェスティバルに、ジェリー・マリガンのグループで出演。
歌手のモーガナ・キングと結婚、チャーリー・パーカーとは家族ぐるみでつき合い、食事もよく共にしたらしい。
一九五五年、アトランティックにリーダー・アルバムを録音。これが唯一の正式な記録。以後、麻薬に溺れ、退廃的な生活を送るまま、一九六九年八月一四日、没。
トニー・フラッセラは、たった一枚の切々としたアルバムで、トランペットの詩人となった。中音域の美しい音がのびてゆくと、聴いているものにも春が来る。その一枚は、アレンジにも恵まれ、メンバーにも恵まれたが、彼自身の人生はそうは行かなかったようだ。
ジャック・ケラワックの「孤独な旅人」の中に、敷物にあぐらをかいて、トランペットでバッハを演奏するトニー・フラッセラ――という記述がある。
※ ディスコグラフィー
○「BROOKLYN JAM
1952」Marshmallow
ピアニスト、ジーン・ディノビの自宅で演奏した希少な音源。レスター・ヤングを敬愛しているのか、「ブルー・レスター」を演奏している。同じくピアノとのデュオの「虹の彼方へ」もいい。どこか淋しくも、ほっとするセッション。 |
○「Fru'n Brew」Spotlite
ここでも「ブルー・レスター」を10分以上演奏。ブリュー・ムーアとトニー・フラッセラのクインテット・ライヴ。ピアノはアトランティック盤でも好演のビル・トリグリア。どこか愁いの漂うアルバム。 |
○「Tony Fruscella」Atlantic
原題はあっさり「トニー・フラッセラ」、邦題は「トランペットの詩人」。誰にでも捧げられる呼称ではないが、これがじつにすんなり、このひと以外にない
と思われるほど、このアルバムはいい。淋しさを知る人は、やさしい。「アイル・ビー・シーイング・ユー」が神品。 |
淋しくやさしい人は、時に気弱だから、トニー・フラッセラはいつでもどこでもいい、わけではない。たった一枚しかアルバムがなかったこの人も、幾つか未発表盤が相継いだが、なんと言ってもアトランティック盤に尽きる。
※
以上、それぞれに天分のある四人の不遇な音楽家を紹介した。バド・パウエル、チェット・ベイカーも哀切極まりないが、知名度もあり、アルバムの数もファンも多いので、わざわざ採り上げなかった。
三人のピアニストと、一人のトランペッターは、現在のわたしが思いを寄せるマイナー・ポエッツである。全員が白人であるのは、なにか意味があるのか、たまたまなのか。黒人主流のイースト・コースト・ジャズを中心に聴いてきたので、これらの人たちを知るのは遅かった。ディック・ツワージクにいたっては、所有するチャーリー・パーカーのライヴ盤で、一曲サイドメンとしてピアノを弾いているのに、名前すら知らなかった。
若い頃に、縁もゆかりもない北国で妻と宛のない漂流を始めたとき、励みになり支えになってくれたのが、ジャズ。以来、ジャズを聴かない日は無かったが、いままた、郷里での、相も変わらぬ漂泊を支援してくれるのもジャズである。なるほど故郷で異人のように暮らして、一九五〇年代にジャズに身を置いた白人の心裡を、より深く知ることになったのかもしれない。
挫折したものは多い。滅亡したものも少なくない。ジャズの世界に限らないが、才能だけでは生き抜けない。ここの四人の生涯をどう評価していいのか、わたしには解らない。ただかれらの精神の発露はとても美しい。残されたその結晶を聴く。かれらのピアノはわたしの糧である。それを摂取して書く。わたしの後にまたそれをエネルギーにしてくれる誰かがいるかもしれない。ほそい命脈である。かれら四人は、確かにどこかでわたしと似通うピアニッシモを響かせている。たぶん同類の弱音なのである。