詩集 与呂見村与呂見村 1991年春 与呂見村 1993年夏 与呂見村 1998年夏 てふてふ 1999年秋 あとがき 銀河国よろみ村 与呂見村 1991年春
与呂見村 1993年夏
与呂見村——五雲山龍昌寺一九九八
雑木山に囲まれて てふてふ—与呂見村とーおじに(1950-1999)
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石川県輪島市三井町与呂見の山中に「銀河国よろみ村」はある。雑木山を切り拓いて、禅寺を移築し、青年僧が一人棲みついた。もう、十数年前のことである。
初めて会ったとき、この僧は、
『こくこくとおいしい水を呑むように暮らしたい。』
と、熱っぽく語った。まっすぐな、すさまじい気迫であった。その時すでに、おいしい水・おいしい自分を一緒に呑もうとする仲間がいて、村は三家族十人、財布を一つにしての自給自足生活を実践していた。
農と禅。
気ままな自由裁量の共同生活。
春から秋は田畑の仕事に追われ、冬は雪の中で独座して、春夏秋耕冬読の天然周期。
静かに精進していた村に、子供が増え、漂客、居候が相次ぎ、新たな家族も出入りして、いつもぶーんと唸っているような村の風景は圧巻であった。ごうごうと、音を立てて流れる暮らしというのも、そうざらにあるものではなかろう。
「与呂見村一九九三年・夏」には二十枚とある田も、今では三十枚と聞く。米を作ることは、土を、人間を作ることに他ならないであろう。有機農法にも、単に肥料の問題に留まらぬ、有機世界、有機人間の復権への願いが籠められていようか。
禅にも農にも疎く、「よろみ村」で座禅も稲刈りもしたことがない私の詩はいかにも貧弱である。
「よろみ村」の醍醐味は「よろみ村」にある。
住人ばかりではなく、ざわめく木立や、生育する野菜、繁殖する鳥虫や、往来する風雨、それら自我他我が渾然と織りなす妙味は、村民と言えども汲み尽くせるものではないのかも知れない。
醍醐の中の一掬の甘露。
僧の願いは等身大である。ゆえに切実の大事である。
甘露を願って辛酸を嘗める。その味わいもまた天地のものか。
写真は初めての野焼きの秋に撮ったものが二枚、表紙の稲架と、山羊のメヒスト。残りの一枚は住民の陶芸作品「大地の女」。馬のロシは相変わらず元気だが、メヒは今では太鼓の皮に名残をとどめるのみ。こうして見れば、よろみ村は写真の方がよくその実態を伝えるように思うがいたしかたのないところ。
詩もこれから書くなら、もっと断章的なものでディテールを綴りたい気もするが、別に俳句を編んだ一冊があるので、とりあえずこれで<よろみ三部作>としたい。
もともと纏める気のなかったものだが、村民の一人から詩集を頂戴して、ならばこちらも冬籠りの慰めにと、老馬ロシの絵本を完成させて贈ろうと思い立った。その付録に句集ともども編んだだけのものである。
よろみ村は現在進行形、わたしも未熟形である。
これらの詩篇を将来破棄したくなるかもしれず、補いたくなるかもしれず。いまはこのままよろみ村に甘えておくことにする。
詩集 与呂見村
1999年1月20日 限定2部
1999年6月25日
フロッピー版エキスパンドブック
2009年12月30日 ttz版
2024年10月30日 増補改訂版 html
泉井小太郎
六角文庫