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1986年の正月2日の描き初めです。
金沢市の外れ、観法寺の友人宅の裏山。
曲がりくねった山径を抜けて、
平らな雪の美しい一画を見つけた友人が、
あそこにふうらを描いて!

雪の白さに吸い込まれるように飛び降りて、
からだを筆に仕立てて飛び跳ねながらの一枚。
描き終わると、夕陽が柔らかく雪を染めてきました。

この年から本格的にふうらを描き始めます。



泉井小太郎(艸々子)


謎の石仏のある町に生まれました。

 子供の頃の憧れは、虚無僧。
 長じては吟遊詩人、旅芸人、
 放浪しないなら仙人、隠者。

飄々としているとか、霞を喰っているとか言われながら、詩を書き、朗読し、
いつからか絵を描き、陶像を作ったりして生きてきました。
詩も絵も独学、独立独歩です。野にあるままに活動してきました。
従って無名です。貧乏です。

二十年ほど前から詩と絵の発表の場を未明のウェブ空間に移して、
電子本製作にも取り組んでいます。

師と仰ぐのは蕪村。それから宮沢賢治、中里介山、熊谷守一など、
はぐれた孤高の表現者に惹かれています。


北条石仏




いつ、誰が、何のために作ったか、一切不詳。
風貌も持ち物も謎に包まれた石仏群です。
昔から「五百羅漢さん」として親しまれてきましたが、
近年の研究ではどうも羅漢ではないそうです。
 子供のような石仏。
 女性と思しき石仏。
 異人に見える石仏。
ほんとうに不思議な群像です。

この傍らのバラック仮校舎で中学生時代を送りました。
羅漢たちの境内で遊んだり、掃除当番に当たったり。
そんな日々の中で、無意識に石仏たちの、
曰く言い難い表情が胸に刻まれたような気がします。


ふうらかん




郷里の石仏たちの魂がさすらっている──
というイメージは若い頃に湧いてきたもので、
それが後に「風羅漢(ふうらかん)」となりました。
遠く郷里を離れて、道を失ったかに見えた日に、
広げた画仙紙の上に浮かび上がってきたのです。
なぞらえると十三人の姿がありました。
以来、かれら(ふうら)の姿を追って、
絵に、陶像に、と風の旅を綴ってきました。

北条石仏が謎であり、異形の群像であるならば、
北条石仏の飛ばした草の絮であるふうらかんは、
さらなる謎の群像です。

けれどまた、ふうらかんはとてもシンプルな、
宇宙の本然に立つ人々のようにも思えます。


草墨


若い頃(二十代の終わり頃)に夢を見ました。
芭蕉と蕪村が相談して「おまえの名前じゃ」と雅号を決めてくれたのです。
草墨──という名前でした。
芭蕉は俳句も俳文も熟読して、大いに影響を受けた人物でしたが、その頃蕪村にはそれほど親しんでいませんでした。不思議だと思いつつ、何やら勿体ない話でもあり、畏れ多いことでもありました。第一、墨などに縁のない人間でした。昔っぽい地味な響きにも、若い精神はたじろいでしまいました。
けれど、夢とは言え、せっかくの文学の大先達からのプレゼント。芭蕉は浮浪漂泊の路通に俳号を与えましたし、蕪村も問題児大魯の面倒をよくみました。ここは遠慮無く「草」の一字だけを使わせて貰い、将来「草墨」に相応しい仕事でも成し遂げたら、その時に正式にお受けしょうと考えました。

草は、草野球、草相撲の草です。草稿、草案の草です。前略……草々の草です。
啓蟄の頃に、未熟で早熟で、一ト月早くこの世に這い出して来た前略艸々子のわが名にはぴったりです。それで、俳号なら、と「艸々子」を使い始めました。

とある古本屋の最下段に眠っていた「蕪村集」と出会い、画俳両面にのめり込んでいく日が来ました。墨というのは何のことか、と思っていたのも、文人画に惹かれ、筆硯を揃えて習作しているうちに、気が付けば「ふうら画」を描き始めていたのだから不思議なものです。そうして画号も「艸々子」としましたが、いまだに「草墨」とは名乗れません。

そんな草の人間だから、草は大好きです。その草でたくさんの絵を描けたことも、また不思議なことであり、ありがたいことです。今回の「草人艸墨展」の草墨とは、草と木と一緒に描いた作品であるというほどの意です。



草人艸墨展入口  木の筆  草の筆