ピアニスト―春蘭筆
……妹が夕飯の支度したくにとりかかると、彼は応接室の方へ行ってピアノの前に腰を下ろした。そのピアノは昔、妹が女学生の頃、広島の家の座敷に据えてあったものだ。彼はピアノの蓋ふたをあけて、ふとキイに触さわってみた。暫く無意味な音を叩いていると、そこへ中学生の姪が姿を現した。すっかり少女らしくなった姿が彼の眼にひどく珍しかった。「何か弾いてきかせて下さい」と彼が頼むと、姪はピアノの上の楽譜をあれこれ捜し廻っていた。
「この『エリーゼのために』にしましょうか」と云いながら、また別の楽譜をとりだして彼に示しては、「これはまだ弾けません」とわざわざ断ったりする。その忙しげな動作は躊躇に充みちて危うげだったが、やがて、エリーゼの楽譜に眼を据えると、指はたしかな音を弾いていた。
―原民喜「永遠のみどり」
草人艸墨展入口/ピアノを弾くひと