ピアニスト―木蓮筆
昨夜の夢で、僕はショパンになっていた。
雄々しい力強い第一弾。ショパンは今、はるかな回想の時間の突端に、立って、昂然と身ずまいする。急に、こらえていた感慨の堰が切れたように、ショパンの右手は想い出の階段を駆け上がって、そこに一つの風景を眺めるのだ。
夕暮れの空の下にひっそりとまどろむ、奥深い木立に包まれた、とある郊外のとある庭園。やさしい微風と、葉ずれの音の合唱に和して、噴き上げの水がたえず規則正しい四分の三拍子でさらさらと流れつづけている。
そうして、その、暗い木蔭に、白い砂利道に、もう夜の降りかけた芝生の上に、忍びやかに笑いさざめきながら、幾組もの恋人たちの影が通る。それは通り過ぎて行く、ここの物蔭に立って見つめている、ショパンの侘しい姿には気がつかずに。
失恋の一時に彳むショパンの右手は、こうして、忘れ果てたあの懐しい情歓を奏でるのだ。滾滾と絶え間なく流れ落ちる噴き上げの水の中に、華やかな虹色の水滴を転ばせながら。
淡々と高音部から、低音部へ。――だが、今日のショパンの姿勢の何と男らしいこと。いつの間にかあの夕暮れの風景も消えてしまった。彼の澄んだやさしい瞳は、無心に遠い空の青さをみつめている。――時おり、その暗い睫毛の落とす影に、一瞬の悔恨をひらめかせながら。
もう一度、高音部から低音部へ。……そう、忘れるのだ……何もかも。……君の視線の爽やかなこと。……淡々と、すべてを忘れて……弾きたまえ、ショパン……つづけたまえ……そこで思想を途切らせてはいけない……そこで悲しくなってしまってはいけない。
さあ、もう一度、高音部から低音部へ。……つまずかないで……すべてのことを忘れつくして……ああ、だめだ、そこで夢を見ちまっては。――は、は、は、は、は。ショパン! 君はやっぱり感傷家だねえ。――いいよ、もういい。咎めはしない。そうしてまた始めようではないか――最初に、力強く。男らしく。……もう、君のピアノの後の壁で、影のワルツが始まっている。僕らはそれを見ているのだ、愛らしい、つつましい、幾つかの影の動きを。
――さあ、高音部から低音部へ。……つまずかずに……流れるように……弾きたまえ、ショパン……つづけたまえ、ショパンよ……
―原口統三『二十歳のエチュード』25
草人艸墨展入口/ピアノを弾くひと