ピアニスト―胡桃筆
月の光のそのことを、
盲目少女に教へたは、
ベートーンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?
霧の降つたる秋の夜に、
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、黙つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに弾き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
虫、草叢くさむらにすだく頃、
教師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜よる、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……
―中原中也「お道化うた」
草人艸墨展入口/ピアノを弾くひと