井月百句

井上井月

六角文庫編




 春



春風や碁盤の上の置き手紙


鯉はねて眼の覚めにけり春の雨


春の雨わらじの強き湿り哉


春雨や心のまゝのひぢ枕


乗合の込日を鐘の霞みけり


何処やらに鶴の声聞く霞かな


大切の猫も留守なり朧月


よき風の松から来るや朧月


花曇り怪家けやにも風のなき日かな


降とまで人には見せて花曇


解け初める諏訪の氷や魚の影


山里や雪間を急ぐ菜の青み


声に其形ち包て揚雲雀


手元から日の暮れ行くや凧


蝶に気のほぐれて杖の軽さかな


この人にして此畠あり月と梅


花咲て牛にのりたき麓かな


下風に心なぐさむ柳かな


名のつかぬうちぞめでたし春の草


菜の花の径を行くや旅役者


よき草も数多の中に蕗の薹


菫野や狐の穴の土手つゞき


時めくや菜めし田楽山椒みそ


春の気のゆるみをしめる鼓かな


 夏



よき水に豆腐切り込む暑さかな


ものはみなあとの噂や虎が雨


命とぞ云うては掬ふ清水かな


水際や青田に風の見えて行く


ひとつ星など指して門すゞみ


尺八の調子覚えし涼みかな


風吹くぞ鳥も歌うぞ昼寝人


水打つて小鉢ならべて夕心


時鳥酒だ四の五の言はさぬぞ


鮒釣は何処へ流れて行々子


蚊柱の遂に崩れて松の月


ぬきすてよ人の心の蛇の衣


心して蝶立ちまはる牡丹かな


いひにくき牡丹の花の無心かな


若竹や露を眺める朝の膳


羽二重の袂土産や初茄子


糠雨に寒さもちけり桐の花


よき風の生れどころや釣荵


折れ曲り来る風筋や釣荵


夏菊や蔵の杜氏の朝掃除


昼顔や牛の嗅ぎ行く咲き処


 秋



初秋や分別つかぬ鳶の顔


行秋や酒沢山を小たのしみ


旅役者もてはやされて月の秋


松風を吐き出す月の光かな


芋堀に雇はれにけり十三夜


稲妻や藻の下闇に魚の影


露深し草に戸ざゝぬ庵の留守


除け合うて二人ぬれけり露の道


魂棚や拾はれし子の来て拝む


山姥も打か月夜の遠きぬた


味ひは水にかなうて今年酒


痩ながら出る月影や鹿の声


立ちそこね帰り後れて行乙鳥つばめ


深草や鶉の声に日の当る


鶺鴒や飛石ほしき朝の川


山雀や愚は人に多かりき


遠しともおもはず月の料理ぐさ


鶏頭やおのれひとりの秋ならず


取りとめぬ里の日和や蕎麦の花


落栗の座を定めるや窪溜り


鬼灯を上手にならすえくぼかな


蓮の実の飛びさうになる西日かな


菊咲や陶淵明が朝機嫌


白菊の露にわかるゝ匂ひかな


 冬



初冬や庵のあたりを去らぬ鳥


初時雨からおもひ立つ首途かどでかな


猿もなけ虎もうそぶけ初しぐれ


風呂焚や時雨の庵の主じぶり


凩やとまり烏の横にゆく


雪の日や酒の機嫌を訪に寄る


桐の実の鳴る程なりて冬の月


松よりも杉に影あり冬の月


もら ふたる火種なくする枯野かな   ※もら


下戸の座の笑ひ小さし蛭子えびす


窓一つ思ひのまゝや冬籠


酒といふ延齢丹や冬籠


腹に合ふものこしらへる榾火かな


寒声や何に成児かしらねども


鷹匠の涕すゝり込む旭かな


ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥


鮟鱇や兎角もの憂き懸処


水仙や雪ともつかぬものが降


石蕗さくや丘へ上りし亀の甲


葱白し足のしびれを火に当る


 新年



目出度さも人任せなり旅の春


初空を鳴きひろげたる鴉かな


七草の宵やなづなのもらひ風呂


 八景の句



  殿島夕照
涼風も怠り勝の西日かな


  光久寺晩鐘
暮遅き鐘のひゞきや村渡し


  法音寺夜雨
夜に入て松に落つく時雨哉


  藤森晴嵐
畑打の弁当に行木陰かな


  宮田落雁
雁なくや町の明りの小田にきく


  沢渡帰帆
春風にまつ間程なき白帆哉


  丸山秋月
誰やらが操に似たり秋の月


  駒峰暮雪
降かくす麓や雪の暮さかひ




井上井月(1822〜1887)

越後長岡出身。柳の家、狂言道人、孤雲山人、北越雲水などと号した。
青年期に江戸で学ぶも、のち放浪、一八五八年頃、信州伊那郡に漂着、以後三〇年間を一所不住のまま伊那谷に暮らす。乞食井月と呼ばれ、奇行逸話も多く残る。「千両、千両」が口癖。
俳諧の他、漢詩文にも造詣が深く、書は味わいがある。



後記


 井月は境涯を語らない。飄々淡々と、眼前の景物を詠み、人事を詠む。挨拶句も多い。伊那谷の小さな村での漂泊。三十年間、草庵一つ結ぶことのなかった身の上が、あちこちの家で詠み残し、書き残していった千数百句があるばかり。
 西行も、芭蕉も、また山頭火も旅の境涯を綴った。越後の良寛も心情を吐露し、北信濃の一茶は粘っこく自我を呟いた。だが、この南信濃の井月は……。
 「痩躯長大、禿頭無髯、眉毛の薄い、切れ長なトロリとした斜視眼の持主で……略……極めて無表情で間の抜けた、さながら 彫刻のような印象……」(下島勲『井月全集』略伝)
 晩年の風貌だろう。同氏が墨で描いた肖像と共に、これ以上井月をよく伝えるものはないように思う。
 寡黙で、酒を好み、書に堪能。そんな男の家から家、人から人への漂泊。残された奇行逸話にその一端は窺えるが、句は風雅に徹して方寸を語らない。が、それこそが井月の「俳」であり、術であり、他の漂泊者と彼とを分かつものなのかもしれない。
 ともあれ、井月百句。蕉風最後の俳諧作者の置き土産を「千両、千両」と味わってみた。

泉井小太郎 





 ※ 表記は新字旧かな遣いとした。

 ※[参考文献]
  漂泊俳人井月全集 白帝書房 一九三〇年
  俳諧人名辞典   明治書院 一九六三年


井月百句

2002年8月30日 ebk 版
2014年1月22日 ePub版
2020年4月20日 html 版
編者 泉井小太郎
発行 六角文庫