芥川龍之介と獏
河童の作家に
獏との会話がある
と知って、新書版全集を探し始めた。四つある本棚にないのは分かっている。書斎の四方には見ないから、では表側の廊下だろうか。
貰い物の黒塗りの机に、動くのは動くが、モニターが危なっかしいコンピュータが一台。左右にはダンボール箱に入ったままの本やらノートやらの文房関連が積み上げられて物置と化している。その足下に雑草のように
かたまって生えている文庫本たち
泰西詩集
朝鮮詩集
南方熊楠、折口信夫、柳田國男ら
民俗関係、詩歌関連らの中に
芥川龍之介群落は見つからなかった
書斎のノートパソコンで、彼の電子本を作る際に、表紙用の河童の自筆画を、そのうちの一冊から取り込んだのだから、どこかにあるはず。それとも残りはまだ木箱の中に眠ったままか。
二〇〇四年の遅い秋に、台湾方面から不意に向きを変えてやって来た台風二十四号。加古川を氾濫させ、西脇や豊岡を水浸しにした荒くれ台風。このあたりは大した被害は無かったものの、もともと半壊家屋を修繕して借りていたアトリエは、吹き込む風と雨漏りでびしょびしょになった。
聊斎志異の
それぞれに怪異幻想の譚
俳句歳時記の
四つの季節と、幾千の名句
フロイドの夢判断も狂っただろう
ジプシーの記録も
ブラック・エルクの語りも
ビートルズの全歌集も
ジャズのスタンダード集も
ロルカも木を植えた男も
ポーもカモメのジョナサンも
アナイスもミラーもみんなずぶ濡れた
中で一番水を滴らせたのが芥川龍之介、全二十冊。水を含んだこれらの本は棚に並べにくく、今の借家に移った際、狭い部屋に入りきらぬままに、厠への廊下で箱入り待機中の身となった。片付けば無事屋内安堵のはずが、雨に祟られなかった大部の本までが箱から出られず、表の廊下や裏の小部屋に積まれた状況ではそれも叶わず、そのうちそのうちが、五年六年と経って、時には凍ることもあったろう。
小さな懐中電灯を持って廊下に出る
くらがりにヤツデ
ツワブキは花を終えた
ナンテンの実はまだあるか
一匹残っていた金魚は
野良キジネコが現れて姿を消した
木箱の中に
河童の作家はいなかった
ではどこだ?
つれあいに訊いても知らないと言う。最近芥川さんは見かけないわねえ。では玄関の本棚か。場所に困って、玄関土間の片隅に素麺の木箱を三つ重ねた簡易本棚を二つ作ってある。文庫新書専用で、一つは星、鳥、草の自然関係、一つが美術・詩歌関連。
もと仕立屋の店先なので、玄関と応接間は一緒、机も椅子もあって、南に窓も開いて明るく、ここで本を読むのがよかろうと、大型美術本を仕切り代わりに並べてある。小川芋銭や熊谷守一をぱらぱら繰る分にはいいのだが、文庫コーナーの方はともすれば屋内離島になっている。大家の電動車椅子と、小型望遠鏡、大きく生長したガジュマルの鉢を越冬させる季節には、土間の通路は封鎖されてしまう。
ここの最下段に収録してあるかもという望みは打ち砕かれ、さりとて手ぶらで帰れず、
荷風の珊瑚集
蛇笏の俳句集
などを土産にした
後は未開の段ボールだけだが、と記憶の再点検。まさか、と厠廊下の突き当たり、トイレット・ペーパーの予備などが置いてある下の箱、ライトを当てると、そこにばらばらと本が入っていた。
ブッダの言葉
(言葉を無くした)
天台小止観
歌舞音楽略史
声曲類纂
江戸語の辞典
類語辞典とあって
芥川龍之介全集も陽の目を見た
数えてみると十八冊。二冊たりないのは電子本作業で世話になった分だろう。こんどはその二冊の捜索になるが、とりあえずは「獏との会話」を聞いてみたいのだ。すべての目次を追ってみた。獏はいなかった。そうだろうな。獏は全集と銘打ってあってもするりと逃げてしまうのだ。
河童の作家は
どんな会話を
獏と交わしたのか
あの怜悧で高速の頭脳が、のろまで曖昧な獏とどう時間を過ごしたのか、仮題としたまま、ついに本題をつけずに終わったことと言い、獏は芥川龍之介にとっても厄介だったのではなかろうか。
***
貘との会話(仮)
芥川龍之介
序
おれは暮方の窓の側に、たつた一人空を仰いでゐた。仄かに青く澄み渡つた空には、疎な星屑が光つてゐる。その空の下に起伏する、数限りもない瓦屋根――其処からかすかに立ち昇つて来るのは、運河が昼の熱を返す水蒸気の影であらうか。それとも東京に住んでゐる無数の人間の吐息で、あらうか。さう云へばおれも空を見ながら、思はず長い吐息をした。徹風に動いてゐるレエスの窓掛け、窓框に並べた忘れな草の、それから靄に沈んでゐる遠い寺々の梵鐘の音――すべてがおれと同じやうに、やはり吐息を洩らしてゐるらしい。
するとおれのすぐ側で、誰かが又長い吐息をした。部屋の中には夕闇が、とうに薄々と流れてゐる。壁に懸けたモナ・リサの画も、あのほほ笑みは云ふまでもなく、顔貌さへはつきりとは見分けられない。が、おれがあたりを見廻すと、おれの足もとの床の上には、雪のやうな毛を朧めかせた貘が一匹横はつてゐた。貘は前足を揃へた儘、石炭の火に似た眼を挙げて、窓側に立つたおれの顔をじつと見上げてゐるのである。おれは半ば身をかがめて、その頭を撫でながら、独り言のやうにかう声をかけた。
「貘よ。お前は何が欲しいのだ。お前の眼には何時になく、饑の焔が燃えてゐるぢやないか。」
貘は思ひがけなく人の如くに、悲しさうにこんな返事をした。
「私は夢が欲しいのです。東京の町には何処へ行つても、小供の夢さへ見当りません。どうかあなたの夢を食べさせて下さい。さもないと私は今夜中に、翅を焼かれた蛾(ひとりむし)よりも、脆い死方をしてしまふでせう。」
おれは
(未完)